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それでも、日本人は「戦争」を選んだ

っていう本を読んだ。

序章は日本近代史を考えることを通じて歴史的に考えるとは何かについて述べる。

9.11のアメリカと1930年代の満州事変あたりの日本の共通点、アメリカの南北戦争と1945年、すなわち太平洋戦争の日本にはいずれも共通点みたいのがあり、歴史の面白さや真髄というのは比較と相対化にあるという。共通性や一致性というのはある一定の視角から眺めていなければ見つけることができない。

例えばアメリカの南北戦争と1945年ごろの日本にはルソーの真理である巨大な戦争の後には基本的な社会秩序の書き換えがなされたという点において共通点が観察できる。リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅しないため」という主張は、実は日本の憲法の中にも見られる表現である。この共通点を結ぶ考え方は「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」というルソーの考えた戦争の真理ににより説明できるものであるという。ルソーは戦争というものが相手が降参した時に終わるものではなく、相手の土地を奪うなどの次元ではないと主張した。ルソーは相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序、すなわち憲法に変容を迫るものが戦争だと言っているのである。第二次世界大戦は無条件降伏を要求する型の戦争であり、敗北したドイツや日本などは憲法英米流の議会制民主主義の方向に書き換えられるようになった。この書き換えとは、日本の憲法原理は戦前は国体、すなわち天皇制であったが、戦後の憲法においては「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その複利は国民がこれを享受する」ということである。天皇制という戦前の日本の社会秩序というものが、戦争すなわち敵対する国家の憲法に対する攻撃により国民主権という秩序に変更されたのである。

 

では歴史的なものの見方とはどうすればできるのか。これは人間が苦しんで発する「問い」により生まれると筆者は主張する。英国の歴史家カーの「歴史とは何か」によると「歴史とは現在と過去の間の尽きることを知らぬ対話」である。カーはなぜ第一次世界大戦から第二次世界大戦まで20年しか平和が続かなかったという問いに対して、人々は正しい原理を適用しなかったのではなく、原理そのものが間違っていたか適用できないものであったのであると主張する。間違えていたのはその当時の原理すわたち国際連盟であったと主張する。敵国であるドイツではなくそもそも国際連盟のドイツに対する対処が間違えていたと。カーは歴史は科学だと主張して、歴史家は特殊の中に普遍を見る、歴史は教訓を与える。もしくは歴史上の登場人物の個性や特殊な事件は、次に起きる事件になにかしら影響を与えると。

 

しかしながら、人々は政治的に重要な判断をしなければならないとき、過去の歴史について誤った評価や教訓を導き出すことがいかに多いか。この誤りは右や左に偏った見方をすることから生じる。過去の歴史のインデックスが教訓を引き出すものとして正常に働かなくなる。

 

逆に言えば、結果的に正しい決定を下せる可能性が高い人というのは、

 

 

 

疲れた。

 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)